過去の記憶なのに消えることはない。どこまでもどこまでも追従してくる。あるときにはそっと心の隙間に忍び寄り、あるときには怒涛の波となって心を覆い尽くす。共通しているのは痛烈な痛み。変えられない。
「ガラス越しに観る風景と似ているかしら」
 薄暗い酒場の隅で酒を飲まずに座るディアドラ。注文するでもなく誰かと会話をするでもない彼女にエリンが声をかけた。といってもそれは名目。この酒場は好きなように各々が過ごせる。ただじっと黙って皆の様子を眺めていても店主であるローガンは何も言わない。たまに他の客が居心地悪そうにすることがあるので、そういうときだけは目立たない席に移ってもらう事にしていた。
 ディアドラはそもそもから目立たない席に座っていたし、店の中にいるのも既に出来上がっているものか別の仲間と込み入った話をしている者。ディアドラの視線に居心地の悪さを感じる者はいなかった。
「眼鏡の外側は全部ガラス越しだけど」
 茶化して言うが目には哀しみが宿ったまま。黙ってエリンはディアドラの隣に座る。女は若き女将から目を離し、目の前にある各種のグラスが飾られている棚に視線を移した。
「そう。あのグラスを、上から被せられたような。目の前に透明な壁があって、私はどうしてもそれを乗り越える事が出来ない。そういう感じが一番近いわね。どうしても変えられないから。変えたいのに変えられない。それなのに嫌というほどはっきり見える……」
 エリンは途切れた会話をつなげようかそれとも黙っていようかと考え、黙っている事にした。珍しく、本当に珍しくディアドラが彼女の仮面を横に置いて呟いている。それに水を差してはいけない。
「この書……今まで何回も手放してやろうと思った。世界は渡れても時間を渡れることはない。あの過去、一番戻りたかった過去に戻る力なんてないのに。けれど、結局これは私と一緒に来た、あの世界のもの。そう思うとどうしても手放せなかったの」
 鍵の形をした杖をカウンターの上に置いた。エリンはこんな間近で見たことがなかったので悪いとは思いながらもまじまじと見てしまう。気付いたディアドラが触っていいと言ってくれたので手にとってみた。
「……軽い」
 見かけは金属っぽく重そうに見えたが意外に軽かった。これが世界を渡る力をもつものといわれても知らない人間なら信じないだろう。個々の装飾は精緻かつ美麗、この鍵があう扉はきっと宮殿にあるに違いないと思わせる。書というよりは美術品と言ってもいいかもしれない。
「そもそもどこかの芸術家が酔狂で作り上げたと聞いたわ。酔狂に世界の知識が宿るというのも面白いわね。ポーパスの首飾りやリウ君の線刻……書と名前があっても、この世界にある記憶は様々なものにある」
 ディアドラに書を返し思い浮かべてみた。確かにこの城にはかつて十二冊の書があったが、うち五冊のみがいわゆる「本」の形態をとっていた。残りは各部族を表した形となっている。ポーパスなら巫女の首飾り、スクライブは線刻、フューリーロアなら牙の飾り。
「アストラシアの書は双剣ですよね。あれには私も驚きました」
「ふふ、そうかもしれない。私は自分の書が杖だから、そういうこともあると思ったけれど」
 率直なエリンの感想にディアドラが微笑んだ。が、すぐに自虐的な笑みになり手にもった杖を眺める。もう少し話をしてみたかったエリンだが、どうやら先ほどから大騒ぎしている酔っ払い簡易楽団が完全に陥落したらしく、ローガンが手を焼いている様子が見えた。
「お父さんを助けてあげて。私もそろそろ行かなくちゃいけない」
「あ、はい。どちらへ? あと今晩何か食べたいものがありますか?」
「あの子に頼まれて。サイナスへ行ってくる。他にも復興対象はあるのだけど、あの街はとにかく最優先だから……」
 立ち上がりふと振り返った。
「食べたいものは特にないけれど、おいしいスープがあると嬉しい」
「任せてください」
 ありがと、と笑って酒場を出て行った。
 ふとエリンは気付いた。ディアドラが、例え夕食であれ、依頼をしてくるのは初めてだと。
「ディアドラさん……腕によりをかけて作りますから、楽しみにしていてくださいね」
 目下の問題はワスタムに厨房に入れてもらうことだがそれもどうにかなりそうな気がしてきた。


 城内にあった書が少しずつ、少しずつ減っていった頃。フェアブリーズ団は団長以下、各地を回り復興に力を入れていた。一なる王はいなくなりそれを崇める協会がなくなったことにより流通形態や支配形態が多少変わった。大半はなんとかそれまでの慣習でやっていけたがそうはいかないところも多々ある。
 その最たるものがフォートアークの内側、サイナス並びにその周縁都市だった。協会が存在する事が街の存在する意味という場所も幾つかあり、どうしても他からの手が入らないと立ち行かない。そもそも一なる王の像が崩壊した際の余波で何もかも崩れ果ててしまった街すら存在する。そんな街のため時に自分たちの足で、時にランブル族の手をかりトビラを使い、各地にまわるルフトたちの姿を見ることが出来た。
 なかでもディアドラはその特異な書と、元司書という立場からサイナス周辺地域での復興活動に多大なる影響を与えていた。いまだにルフトは信用しないがディアドラならば信用するというものも多い。
「すまねぇなディアドラ。あの辺、あんたに頼りっきりだ」
「いいのよ気にしなくても。貴方は各首長に連絡をして資材搬入を手配してくれているじゃない。そちらの方が面倒が多そう」
「んなこたぁねーんだけどな。確かに首長っちゃあ首長だけど、アストラシアはクロデキルドだしリジッドフォークは将軍に一言言ったらいいだけだし」
 本人はいたって軽い気持ちだ。一度でも共に戦った仲間なので気安いものだと笑っている。けれどそれが一番困難で、他に頼めるものがいないのだということに気付いていない。
「確かにそれがこの子のいいところなんだけどね」
 マリカに呼ばれ大慌てでそちらに走る背中を見る。そのまま見ているとリウに声をかけられた。
「何か用?」
「いや……なんつーか、ディアドラさん変わったよなぁって」
「そう? 貴方の方が変わったと思うけれどね、族長さん」
「たはは、族長ってガラじゃねーけど」
 リウは笑いを引っ込めてディアドラを見た。何かを予感したが黙って聞く。
「なあディアドラさん。あんた、前の族長のこと、どう思ってる?」
 間接的だがその死に影響を与えたディアドラ。彼女が手を出さなければラオ・クアンは死ななかったのかもしれない。この少年も族長などという立場にならなかったのかもしれない。
「……それは」
「ああ、先に言っとくけどさ、別にあんたが原因うんぬんの話じゃねーんだ。ただあんた、多少なりとも婆さんの事知ってるだろ? だから知りたいんだ」
 思わぬ言葉に知らず握り締めていた手から力が抜けた。
「婆さんが死んじまったのは仕方がない。仲間の中にゃまだ割り切れてねー奴いるけどとりあえずオレは気にしてない。婆さん、オレが里出た時から次の族長って決めてたらしいから、族長には遅かれ早かれなってたんだし」
 自分の腕の線刻を辿る。
「あんたにゃあんたの立場がある。あの時はあんたはああするのが一番だと思った。それでいいんじゃね?」
「……ルフト君も凄いって思ったけど、貴方もなかなか凄い子ね。あのラオ・クアンが次の族長と見込むだけあるわ」
「やめてくれよ照れくさい。んで、どうだったんだ?」
「教えるのはいいけど何故?」
「んー。オレ線刻入れられる前に逃げ出したからさ。あんま知らねーんだ。んで今知ってる奴に片っ端から聞いてってる。里の連中じゃ「凄かった」以外言わないのが面倒で」
「それで私なのね。でもたいしたことは知らないわ。スクライブは森の民。力をもつのは知っていたけれどどこにいるのかわからなかったから、正直に言って噂程度しか知らない。ワヒエの方が知っているんじゃないかしら」
「あー、そっか。ワヒエなら知ってそうだ。メチャクチャ顔広そうだし」
「役に立てなくてすまないわね」
「気にしてね−よ。ワヒエって案聞けたからむしろ収穫だ」
「どうしてラオ・クアンのことを?」
 手を振ってその場を去ろうとしたリウに聞き返してみた。もう一度体をディアドラに向き直らせて考え込む。
「うーん。なんてーのか、一応前の族長なわけだし、どういう奴なのか知っといたほうがいいかなって」
 この少年は彼なりに族長であろうとしているのだ。かつてを知り同じ轍を踏まぬよう。
「オレは婆さんにはなれないしなろうとも思わないから、その辺は皆に言ってあるけどな。ってああ、なんかわけわかんなくなってきた」
「ふふふ。それがわかっているなら貴方は貴方の方法で皆を導けばいいわ。その力はあるのだから」
「あんたに言われるとなんか本気でその気になりそうだ。ま、とりあえず回廊言ってワヒエ探してくるよ。ありがとな、ディアドラさん」
「どういたしまして」
 去るリウを見ているとリン・レインが手を振っていることに気づいた。少年も振りかえしそちらに向かう。
「良い仲間がいるわ。貴方はきっと良い族長になる。この城にいた人ならきっと、良い道を歩ける」
 なら自分はどうなのだろう。まだ答えが出ない。


「資材は、急ぎの分なら私が道を作るから」
「じゃあ木材を至急たのめるかい? 石なら石切り職人がいるから切り出して来れるがちょいと時間がかかる。その合間の住処を作りたい」
「わかった」
 今彼女がいるのは建物の半数が壊れてしまった街。石造りの綺麗な街だったが今は見る影もない。長と話をつけ至急に木材を調達する事になった。
「少し待っていて」
 言いながら書の力を解放する。目の前に光の柱が立ち、その中に入ればいつもの回廊。しばらくはこの通路は残しておかなければ。
 世界を渡ることが出来なくなったランブル族の為に、せめてこの世界を歩く為の道を残しておきたい。こんな風に思うようになったのはいつからだろうか。そうこうするうちに主だったところには全てトビラができていた。
「やはり私もランブル族なのかしらね」
 軽く笑ってスカイワードへの道を開く。出たところにいたランブル族に頼み、また資材置き場の人足にも一声かけた。
「おやすい御用だ」
 豪快に笑って人足たちはランブル族の開いたトビラ、ディアドラが作ったトビラを資材を持って超えていく。これであの街はまた少し復興するだろう。
「……少し休もうかしら」
 ここのところずっとあちこちに行き来している。あまりトビラを開くと比例して疲れが溜まるのでたまには休まなければいけないとザフラーに釘をさされていた。
「……」
 どこか静かな場所へ。一時期に比べれば人は減ったがそれでもこの地域で一番活気のある城。外にいても賑やかだ。足は自然と地下室へと向かっていた。かつてゼノアが不思議な石版を携えて現れたあの場には滅多に人はこない。賑やかなスカイワードにあって唯一時の流れから忘れられているような場所だった。
 どこかしら張り詰めた空気。少しだけ伸びている階段を下まで降りる。その下は水が張られていた。一体何を思ってこういう作りになっているのか良くわからないが、一なる王の像の中にも似たような場所があったことを思い出す。
「この城は……別の世界では、一なる王の居城だった?」
 王は滅びそれを記していたかもしれない真正なる一書も消えた。想像で語る事はあまりしたくないので考えるのをやめた。
 水から涼が立ち上り薄暗い地下はほの寒かった。それでも書の力を使った後は体が火照るのでちょうどいい。
「ここにいたゼノアは……一書と不思議な石版と一緒に行ってしまった。オルドヴィークもこの世界から再び去った。他の世界で星を宿していたものはみんなみんないなくなった」
 では自分は? なぜここにいる。理由は? 理由は復興の為。協会に潰されてしまった街を再び元のように戻すのが、潰す側に荷担してしまった自分の責務。

 かつて失った仲間に会えたら許してくれるかしら。

 そんなことをいつのまにか考えている事に驚いた。
「許し?」
 そんな甘い事を考えるとは思わなかった。考えを頭から振り払いぼんやりと見える水面に視線を移した。この水はどこからきているのだろう。張り巡らされている根を見てふと思った。
 確か屋上から水が流れ出していた。誰かが、樹から水が流れ出していると言っていたように思う。本当かどうかは知る由もないが、ここから根が吸い上げて上で流しているのかもしれない。樹の中を通り、枝葉に水を行き届かせ、全てを樹で抱えてから外へ。まるでこの城の主のようだ。ルフトも荒削りながら似たような部分を持っている。
「あの子の傍なら私は生きていてもいいのかもしれない」
 ディアドラが抱えていた様々なものを吸い上げ、浄化して返してきた。
「でも」
 旧世界の戦いを知るものはいない。本当に過去を知るものは消えた。かつての仲間の中にもいたのだ、それより以前の世界を知るものが。
「……」
 そのものは言っていた。自分は旧世界の遺物だと。世界は新しく生まれ変わりその中で生きていくしかない。けれど旧世界の遺物は存在そのものが新しい世界を脅かしかねないのだと。


「とりあえず一段落ってとこか?」
「そのようね」
 大きく伸びをしながらルフトが聞いてきたので頷く。
「おーっ、そりゃいい話だ。ありがとなディアドラ、お前けっこームチャしただろ」
「そんなことないわよ。貴方が思っているよりかは頑丈だから」
 どこの街でも景気良く復興が本格的に始まった。ずいぶんと協会の影響も少なくなり、このままそっと消えていくだろうと思う。
「じゃあ私は西の方を見てくるから」
「ディアドラ」
 意外に低い声で呼び止められた。少しずつ彼は大人になっている。妙な感慨を持った。
「どうしたの?」
「……どこまで西か知らねーけどよ。いつでも帰ってこいよな」
「!」
「んじゃオレは東に行くか。じゃーな」
 またすぐ会える。そう信じきった挨拶をして走っていってしまった。残された女は呆然として見送る。ふと、ポロリ、ポロリと涙が零れてきた。
「涙なんて……とっくの昔に……枯れたのに」
 顔を覆うがすぐに涙で手が濡れた。他愛のない一言なのに嬉しいとどこかが言っている。
「ああ……ああ!」
 私はそこにいてもいい。それがわかっただけでいい。戻れる場所があるのなら。
「いつでも、どこまでも私はいける」
 自分は旧世界の遺物。だからこの世界にとって災いになる前に消えなければいけない。そんな彼女の決意をルフトの一言は吹き飛ばしてしまった。他の誰に言われてもきっと心は揺らがなかっただろうのによりにもよって彼なのだ。
「ふふふ……やはり、凄い子」
 涙を拭きながら書を一振り。ディアドラの周りに光の粒が現れる。さあいかなくては。今度の、果てのない道程の先には何があるのだろう。そんなことを思いながら、世界からゆっくりと消えた。


 マナリルとソフィアのラボに顔をだしたら少しお茶でも飲んでいけと誘われた。
「どうでもいいけどこの城のヤツラ、茶が好きだよな。下でもエリンに進められた」
「あ、じゃあもういいですか?」
「いやもらう」
 マナリルが茶を下げようとしたのでルフトは出ている茶菓子を掴み茶を一口飲んだ。
「そういえば最近……ディアドラ……見ないわ」
「ディアドラ? アイツ西の方見にいくって言ってた」
「西……?」
 ああ、と頷きまた茶菓子を手に取る。
「アイツのこったから世界越えて西いってるんだろ。そのうち帰ってくるよ、きっと」
「ディアドラさんの書なら、一なる王がいなくなっても世界を乗り越える力がありますし、きっとそうですよね」
「……」
 ソフィアは何か思うところがあるようだったがルフトは目線で駄目だといった。理解し、マナリルにそっと笑いかける。
「ひょっこりトビラ作って帰ってくるさ」
 ルフトは窓から外を見た。かすかに光の粒が舞っているような気がした。



*  *  *  *  *  *  *  *

 多分ここのお話初、ホツバ兄さんとモアナんが出てこないお話w ランブル族が出てこない、となるとディアドラ姐さんはナニモノなんだということになるので。旧世界の星宿たちが軒並みいなくなってるので、新しい世界にとっての綻びとならないよういなくなってるのかなーと思うと意外にすんなりできました。
 姐さんの道程は旅になりました。旅は、戻る場所がないとできない事だと思ったり。

もどーる